灰色の雲におおわれた、暗い日曜日の空みたいな目で、キース・グッドマンはため息をついた。もうずいぶんと長い間ぼんやりしている。手に持ったミネラルウォーターのボトルから、ぽたりと水滴が落ちた。
だれにも気付かれないようにトレーニング・ルームを抜け出したイワン・カレリンのまっ白いスニーカーのつまさきにも、ぽたぽたと水玉が落ちる。しょっぱい雨はもう幾日も降り続いていて、ちっとも止みそうになかった。だって、キング・オブ・ヒーローが恋をした。
この頃のかれはすごく悩んでいるように見えたし、傷ついているようにも見えた。だけど、ほんとうにやさしく目を細めて、笑ったりすることもあった。
気づいてしまった。キースさんが恋をしているってこと。苦しい気持ちをよく知ってるから。思い出して、ちいさなことでもうれしくって、笑ってしまうときの気持ちも、よく知ってるから。
だれより先に気づいていました。いつもいつも見ていました。ごめんなさい。ずっと、ずっと好きだった。でも、あなたの声で聞くまでは、僕だってこんなふうに泣いたりはしなかった。
雨はそれから降りっぱなし。もうすぐ、からだのなかは海になるだろう。そうしてこの恋が溺れてしまえばいい。僕の恋は、溺れて消えてしまえばいい。
イワンは地下鉄にもバスにも乗らないで、街のまんなかを突っ切って歩いた。できるだけゆっくり、同じはやさで歩く。もしもいま走ったなら、こころが割れてこなごなになってしまいそうだった。
やがて煉瓦造りのアパートメントと遊歩道とスーパーマーケットの向こうに、遊園地が見えてきた。ちいさくてちっぽけな、忘れられた遊園地。もう何年も前からとり壊されるってうわさだった。だけどまだ、観覧車だけは動いている。さすがにだれも乗っていないだろうけど。
もう充分すぎるくらい落ちこんでるっていうのに、わざわざどうして、もっと落ちこむようなことをするんだろう。
あきれるような気持ちでイワンは観覧車の切符を買い、ひとり乗りこんだ。ばかみたいだって思うけど、それでも近くにゆきたかった。
軋む音をさせて、ゴンドラがゆっくりと空にのぼりはじめる。
窓の外はやわらかな夕暮れ。オレンジとピンクの空、すみれ色の雲の向こうに星が透けてきらめく。空がどんどん近くなる。涙のなかに星が溺れてじわりとにじむ。まぶしくってやさしい空。だけど今、僕の世界は水浸しだ。目の奥もあたまもじんじん痛くてしびれている。恋はなんて、なんて苦しいんだろう。
キースさんも、こんな思いをしているのだろうか。いやだ。そんなの、だめだ。苦しい思いをしてほしくなかった。かなしい思いをしてほしくなかった。でも、どうすることもできない。
この恋を消して、あなたの恋がどうかうまくいくようにって、願えたらいいのに。ごめんなさい。
そのとき、がしゃん、と音がした。心が砕けた音だと思った。恋がするどい破片になって、からだの中に飛び散る。肌の内側を切りつけ、まるで棘みたいに、喉の奥に突き刺さる。
痛くて苦しくてかなしかった。だけど、恋しかった。会いたいと思った。好きだった。好きだ。好きです。僕のキング・オブ・ヒーロー。
「キースさん……」
はじめて、声にして名前を呼んだ。胸の内でこっそりなぞってみるだけの、とくべつな名前。
涙がぽろぽろ、ぽろぽろ、頬を滑り落ちる。情けなくてみじめで、ああほんとうに、ばかみたいだ。ぐらぐらする。慰めになんかならないって、そんなことわかってたのになあ。
いよいよ立っていられないほど、足もとが大きくゆれはじめた。からだが傾いて、窓におもいきりぶつかる。観覧車は止まっていた。
さっきの音は、心が割れた音じゃなかった。外をのぞく。柱のひとつに、ここからでもわかるくらい、大きくひびがはいっている。
このままじゃ危ない。はやく知らせなきゃ。
だけどドアは鍵がかかっていて、内側から開けられない。何度も蹴ったり、叩いたりしてようやくわずかな隙間ができた。ついに蝶番がこわれ、いりぐちが開いた。びゅう、と強い風が吹いて体ごと投げ出されそうになる。どうかだれも乗っていませんように。祈るような気持ちになって、ひとつひとつ、ゴンドラを目で追ってゆく。涙のあとが乾いて頬がぱりぱりしたけれど、そんなこと、どうだってよかった。
あっ、と短く声がこぼれる。ここから三つ先、地面と近いほうのゴンドラに、ちいさな女の子と男の子が見えた。ぴったりくっついて、うずくまっている。
待ってて今、助けに行く。
イワンはところどころペンキの剥げた白い柱をたどり、しがみつくようにして進んだ。下でだれかが叫んでいるけど、こわくて見られない。体がすくんで、動けなくなりそうだ。
うなり声をあげて、観覧車は軋む。
あとすこし、もうすこし。せいいっぱい腕を伸ばしてやっと、子供たちのゴンドラに届いた。だいじょうぶ、もう、大丈夫だよ。イワンが窓ごしに笑いかけると、女の子はちょっとだけ安心したように、こくりとうなずいた。男の子は目にいっぱい涙をためて、ポップコーンの袋を握りしめながら、びっくりした顔をしていた。鍵を外側からはずし、ゆっくりドアを開ける。
わあああん! アイスクリームの甘い匂いとふたりの泣き声がはじけるみたいに溢れ出した。イワンは両手いっぱいにふたりを受け止め、抱きしめる。ポップコーンが夕暮れ空に飛び散ってゆく。
青い光がふんわりと子供たちを包んだ。すると、輝きはじめたばかりの星と淡い群青の夜とばら色の雲でできた大きなすべり台が、そこにあらわれた。先に女の子、続いて男の子が、するすると滑り降りてゆき、涙でマスカラをくしゃくしゃにしたママの胸に飛びこんだ。
ああ、よかった。青い光をほどいて、ひとのかたちに戻ったイワンは崩れかけの観覧車を見上げる。あたりには消防車や警察の車がたくさん集まってきている。はやくここを離れないと。
「危ないぞ! 逃げろ!」
だれかが叫んだ。あたまの上をおおっていたゴンドラの影が、みるみる大きくなって迫ってくる。ついに柱が折れ、崩れたのだ。
駆け出したいのに足が動かない。体はぜんぜん言うことを聞いてくれなくて、かちかちに固まっている。もうだめだ。
イワンはぎゅっと目をつむった。雷のうねりのような音。白っぽく空がぼやけた。ふわん、と体が宙に浮かぶ。やさしくてあたたかな夕暮れ色の風に抱きとめられていた。
おそるおそる目を開ける。よく知った姿が、すごく近くにあった。キング・オブ・ヒーロー、二位になってちょっと落ちこんでいたけど、だれよりかっこいい憧れのスーパーヒーロー。スカイハイ。
「大丈夫かい?」
あんまり驚いてしまって、うまくこたえられなかった。どきどき鳴る心臓がうるさい。いやだな、こんなに鳴ったら聞こえてしまう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「すばらしい活躍だった。すばらしかったよ、とても! さすがは折紙サイクロンだ!」
「あの、スカイハイさん、えっと」
「すまない。しばらく我慢していてくれるかい? しっかり掴まって」
抱きしめられて、心臓が海のさかなみたいに飛び出しそうになる。HERO TVの中継車が風をふるわせて追いかけてくる。
スカイハイは右手で中継車にサインを送ると、イワンを守るように抱いて、ひゅうっと高度を上げた。素顔の折紙サイクロンを、カメラからかばってくれていたのだと気づくまでにはすこし時間がかかった。
体じゅう、どこもかしこも熱くって、顔なんか火が出そうなくらいだ。イワンはまっ赤な頬をヒーロースーツの胸にうずめて目をとじた。太陽と潮風と洗濯ものの、いい匂いがした。苦しくて熱くて息ができないくらいなのに、すごくしあわせだった。すごくしあわせなのに、泣けてしまう。泣けてしまうけど、こんな情けないところ、ぜったい見られたくない。どうにかして涙を止めたかった。涙はまるい水玉になって、夜にとけてゆく。
ほんのすこし湿った、ひんやりつめたい夜の風。街のあかり、あたたかさ。
スカイハイはゆっくり速度を落とし、このあたりでいちばん高いビルディングの屋上を目指した。とても残念だけれど、今夜のフライトはおしまいだ。
イワンはこっそり深呼吸をして、何度もして、どうにか気持ちを落ちつけようとがんばっている。お礼のことばをいくつも思い浮かべて、くちびるだけで練習してみる。助けてくださって、ありがとうございました。それじゃあ、また明日。よし、これでいこう。
きちんと準備をして待ったけれど、腕の力はすこしもゆるまない。抱きしめられたまま、ほんのちょっとだけ浮かんでいる。
「えっと、すみません、あの、降ろして、いただけますか」
名残り惜しくってどうしようもないけど、また泣き出してしまう前に、はやく家に帰りたかった。スカイハイさんだって、きっとそうだとイワンは思った。かわいい彼女のところへ、すこしでもはやく帰りたいはずだ。きっと、あったかい食事を用意して、かわいい彼女はキースさんの帰りを待ってる。僕なんかちっともお呼びじゃない。ふたりの邪魔をしちゃいけない。どうしよう、また泣けてきた。
「ああ、これはすまない! しかし、困ったな。離したくない。そして離したくない!」
いっそう強く抱きしめられて、胸の中の空気がふうっとこぼれる。息をするのも、泣くのもそれきり、忘れてしまった。
夕暮れ空と観覧車
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